有形無形の遺伝子

聖バレンタインデーですね。
この行事のはじまりは、どんな故事に由来しているのでしょう?
聖バレンタインとは、どんな事績を残した人だったのでしょう?
僕は知りません。


エジプトのホワイト革命。
きっと、エジプトの人々や、自由を渇望するすべての同時代人は、
あの日を忘れないでしょう。
でも、何百年と経った後は、民衆運動のきっかけとなった焼身自殺に
ちなんで、人型のパンを焼いて食べる日になってたりするかも。
そのまたさらに何百年と経った後は、かわいく飾り立てたパンを
想い人に贈る日としてしか記念されないかもしれません。


2月12日に、祖父の四十九日の法要がありました。
納骨を済ませた後は和食屋でお昼を食べて、祖父の家に戻ってからは
宵の口までおしゃべりをして散会となりました。
…今回も、祖父にまつわる話を聞くことを忘れてしまいました。
祖父はどんな人物だったのか?
今となっては、なにもかもがおぼろげです。
自分は、祖父からなにを受け継いだのだろう?
祖父は、なにを伝えたかったのだろう?
祖父が使っていた筆を譲り受けた小学生の姪のほうが、よほど有意義な
継承をしたのかもしれません。


考えてみれば、僕につながる生命の流れは、何十億年も前から
始まっているはずです。
その流れの中には、今も役立つ教訓がたくさん詰まっているはずです。
しかし、僕は何一つ、それを受け継いでいません。
だからなのか、人生失敗続きです。(責任転嫁)
きっと、ご先祖様の数々の失敗を、僕も同じく繰り返しているはず。
なんという無駄。
なんという愚かしさ。
血は時の果てまでつながっていても、理念や教訓は断絶。ぶつ切りです。


継承の要は、入れ物ではなく、中身です。
形式・様式を受け継いでも、なぜそうなったのか、なぜそうするのかを
知らなければ、形は崩れていき、同じ試行錯誤を繰り返すことになります。
それは愚かです。
もしくは、もはや昔の形骸を留めないほどに変質してしまいます。
それは、受け継いだ、とは言えません。


逆に言えば、理念を受け継いでさえいれば、表の形などどうでもいいと思います。
僕に関しては、血のつながりにこだわらず、いろんな人から昔の話を聞き、
それを、血のつながりにこだわらず、いろんな人に伝えていけばよい。
昔の話だけでなく、今起こっていること、今考えていること、
なにもかも全てを見聞きし、体験し、それを伝えていけばよいと思います。
この世のすべてを有形無形の遺伝子と捉え、貪欲に摂取し、
無理強いしてでも撒き散らす。
形ばかりの空疎な継承よりも、そして正常な継承も超えて、よほど面白みのある
継承の姿だと思います。