【東電】一億総懺悔は真の復興を阻む

世間の、東電に対する評価。
万が一の備えを甘く見ていたという上層部の怠惰に怒るあまり、上下を一緒くたにして非難する。
己の命を顧みずに被害の拡大を防ごうと闘う最前線の人々の献身に感激するあまり、上下を一緒くたにして賞賛する。
根っこは同じです。


高校生の頃、
『君たちの行動に対する世間の評判は、すなわち我が校に対する評価となる。』
と、事あるごとに説教する生徒指導の教師の、この言葉が嫌いでした。
学校の評価のためにイイ子ちゃんぶれとも受け取れる口調と、
なにより、一部の言動を元にして全体を評価しようとする乱暴な考え方に
疑問を持たず、それを受け入れているということが許せませんでした。
高校は、ひとつの主義のもとに集って強力に結束する人々の団体などではなく、
種々雑多な人々が行き交う場所でしかないのに…。


しかし、32歳になった今、あらためて世の中を眺めてみると、
『一部を見ただけで全体の評価を決める』
『その集団の性格・結束度に関係なく、ある集団の構成員は、みな同質であると見なす』
という考え方が、いかに深くはびこっているかを思い知らされます。


今回の、原発への対応に苦慮する東電への評価も同じです。
非難する人も、賞賛する人も、東電の一部の行動にのみ注目し、
それを東電への総合評価としてしまっています。
東電もまた、種々雑多な人々の集合体だと思います。
普段は、職場や部署単位で結束して『アッチの部署には負けるものか』と競争したり、
労働者が東電労組として集まって経営側と闘ったりしているのは、
社会人ならば誰でも容易に想像できるはずです。(私は糞ニートですが、想像できます)
なのに、一旦集団全体の単位の問題が起こると、個人や小集団への視点を忘れて、
すべての構成員を同罪と見なすのは、単に誤っているというよりも、
非常に危険な考え方です。


話は飛んで、第二次大戦後の話。
東久邇宮首相を中心として政府やマスコミは『一億総懺悔』を唱えます。
(wikipediaから引用) http://bit.ly/erA8vh


敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります
『日本人の謙虚な心を取り戻し、復興のために再び団結しよう。』
というメッセージだと受け取ることもできます。
が、よくよく考えてみれば、
無茶な作戦を練る将軍と、前線で飢えて略奪する兵士、
情報を隠し捏造し戦意を煽るマスコミと、調子づいて踊る民衆、
すべてが同罪であるはずがありません。
ある集団の構成員はみな同質、と見なすのは、非常に危険な考え方です。


大物政治家が、罪を秘書などに被せて自分だけは逃げようとする姿を指して、
人は『トカゲの尻尾切り』だと批判します。
今回もそれと同じだと、なぜ気づかないのでしょう?
記者会見で非難の矢面に立たされている人々も、
現場で命を捨てて復旧作業に当たっている人々も、
みんなトカゲの尻尾です。
三国志演義のように、大将が先頭に立って前線へ突っ込むなど、まずありえません。
大将は責任を取りません。
中間の将軍はともかく、君主は、ギリギリまで追い詰められなければ、切腹しません。
そもそも、安易に責任を一身に引き受けたがるような人物は、
巨大組織の頂点に上り詰めることはできませんし、
ホイホイ責任を取って死にたがるリーダーは、逆に迷惑ですらあります。


東電の怠慢が許せないのであれば、これまで万が一の対策を怠ってきた
経営責任者に狙いを定めて非難するべきです。
身を捧げての奮闘に感激したのであれば、今も作業を続ける
現場の社員に狙いを定めて賞賛すべきです。


どんな集団でもその構成員はみな同質と見なし、
個々人の事情への想像力を失うことは、
『一億総懺悔』のような暴論を受け入れて真の反省の機会を失い、
再び、無責任な管理者の失策を許すことにつながります。
尻尾を切って、舌を出して逃げるトカゲが憎い、というよりも、
何度無駄な人災を起こせば気が済むのか、
何度歴史の教訓を、犠牲を踏みにじれば気が済むのかという
怒りを強く覚えます。
真の反省がなければ、一時の復興を果たしても、いずれ脆く崩れ去ります。